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自由なブログ

遠い未来 大人のぼくへ

#8 趣味

趣味は何かと訊かれたら困る。と言う人は基本的に、あまりおおっぴらに言えないオタク趣味だからという理由だと思う。ぼくはそんなオタク趣味すら持っていない。確かに、漫画を読むのは好きだ。ゲームをするのは好きだ。音楽を聴くのは好きだ。ボーカロイドもそれなりに知っているし、好きなゲームはポケモン、好きな漫画は僕だけがいない街、好きなライトノベルサクラダリセット。あまり迷わず答えられる。漫画やラノベは原作派。そこそこ拘りもある。けれどその程度で、語るほどの知識とか、詳しく知っている自信はない。どうしようもなく、趣味を持つことができない。小学校の道徳の時間とか、中学校・高校の自己紹介カードを書こうみたいな時間が窮屈だった。

最近一つ、自分の趣味に気付いた。一人暮らしを始めたことで、勝手にお金を使えるようになったからだ。これだけは自信を持って言える、ぼくの趣味は、誰かにプレゼントをあげることだ。プレゼントは、ぼくがどんなにダメな人間でも、簡単に人を喜ばせられる。結局は自己満足に過ぎないし、それで運命的な何かが変わるとは思わない。けれどそんな自己満足の過程で、誰かが少しだけ笑顔になるなら、それは理想的な世界ではないか。誰に否定されることもなく、誰も損をしていない。

思えばプレゼントとは不思議なものだ。例えば誕生日プレゼントに1,000円札を貰っても、微妙な気分になるだけだ。機械的に得をしたと思っても幸せにはならない。しかし1,000円のものを渡したなら、おおよそそこには喜びが生まれる。そのプレゼントは、1,000円札が分化するはずだったありとあらゆる可能性を捨てたものだが、それでも1,000円札より価値がある。…という風に書くと気味が悪いが、プレゼントを選ぶという行為が、その心が、人を幸せにするのだとぼくは思う。案外、人の心なんていうのは、簡単にお金に勝つんだと信じたい。

先日、プレゼントを買った。明るくて純粋で、いつも楽しそうな、少女のような女の子にプレゼントした。20歳になる少女へ、ちょっと背伸びして、紅茶を選んだ。

#7 人助け

今から8年ほど前、インターネット上に幻のゲームがあった。そう呼んでいるのはたぶん世界でぼくだけで、そのゲームのことを知っているのも探せる範囲では世界でぼくだけだ。

無限に続くタワーを登っていくゲームだった。敵を倒して、レベルを上げて、新しい技を覚えて、上の階に進んで、ひとまわり強い敵を倒して、また上がる。本当に無限であったのかは小学生だったぼくには分からなかった。

そのゲームが幻なのは、登録者の上限がたった100人だったからだ。無限を謳う階層とメモリの兼ね合いが理由だと推測してみたが、実際はどうなのか分からない。本当に100人までだったのかも、100人いたのかも分からない。そのゲームのタイトルも今となってはもう分からないし、そういうゲームが存在したという事実もない。何ならフィクションだということで構わない。どう検索したってそのゲームらしい情報もプレイヤーのブログも見つからなかった。でも3000だか4000くらいの階層で、回復薬を恵んでくれた騎士がいたことだけは覚えている。人助けは、人助けをした人が思うよりも、助けられた人の記憶に残る。ぼくも人を助ける人になろう。回復薬を恵んでも、自分は決して倒れないくらい、強くなろう。

#6 贋作

前回のブログを思うままに書いた後で、改めてブログを見返して、恥ずかしくなった。#1を読み返すと、「今後のブログは敬体で書く」というような記述があったが、敬体とは誰かに見られる前提のもので、つまり余分な自意識の表れではないか?自分に承認欲求や自意識があるというのは解っているけれど、あまり悟られたくはないものだ。それで、#2〜#4のブログを非公開にした。常体で書いて、10代の自分の意識を留めておくメモ帳として活用しているんだよ、という言い訳を作ろうと思った。

憧れているアーティストが綴る文章と、自分のブログは比べるべきではないし、意味がない。でもぼくは若いから考えた。その魅力の差は何であるのか。もっと若い頃のぼくは確か文章力だとか語彙力だとか思っていた。少し成長して気付いたのは、自分の思考を残すブログには自分の思考が必要だと言うことだ。憧れのアーティストはぼくより面白い人生を送っているし、面白い考えがある。面白い考えがあるからブログが面白くなる。語彙力はアウトプットの道具にすぎない。弘法は筆を選ばない。

面白い人生を送るためには努力が必要だから、その入り口としてエレキギターを買った。テレビの前に鎮座している。入り口を買っても踏み込まなければ意味がないと知った。つまらなさそうな顔のギターを見ないフリして、面白い人間が作った音楽を聴いている。贋作として歌っている。カラオケの点数は96点。あと4点があまりにも遠い。その4点があれば、ぼくは憧れのアーティストになれたのかな。

#5 大人

バカなことをする大人が好きだ。タモリが無表情になるような、世間が認めようとしないようなことを、自信を持って武器にする大人が好きだ。例えばYoutuberだったり、プロゲーマーだったり、この括りで言うとミュージシャンも好きだ。大人はYoutuberになんかなるなと言い、ゲームばかりするなと言い、バンドなんかやめて真っ当に働けと言う。偉い人に頭下げて、神経すり減らして働いて、やっと家族を養う男、本当に立派だ。真っ当だ。社会の歯車だ。でもぼくは歯車になんかなりたくない。たった1人で、自分の音楽で、社会をブン殴るような人生の方がカッコいいではないですか。

 

こういう思考は中学生みたいだと言われる。オリジナリティを求める思春期の、普通の少年は、こう思っているのかな。自分が特別だと言いたいのではないが、当時のぼくは違った。むしろ逆で、社会の歯車になりたがっていた。工学部を志望していた。数千万人の若者のうちの1人になって無難に生きていこうと思っていた。それがカッコいいと思っていた。高校生になり、携帯電話を手にして、広い世界を見て、違和感を持ち始めた。社会の歯車になりたがった理由は、そういう教育を受けたからだと気付いた。ちがうんだ。影が薄い、個性がない、特技も趣味もないぼくだけど、それでも本当は、オンリーワンになりたかったんだ。自分勝手で面白おかしい大人になりたかったんだ。そんな心境の折衷案として、ぼくは技術職の大学に進学した。せめて替えが利かない歯車になろうとした。

 

そういう過去があって、今になって所謂厨二病を発症している。だからこんな読みづらいブログなんかを書いている。抑圧された思春期が、20歳を前にして出てきているけど、ぼくは大人になったから、結局それを抑えて生きている。ぼくはぼくが嫌いなつまらない大人へ成長した。周りを見て、ただ羨ましいと思う限りだ。

 

もしも自分に子供ができたなら、中学生までに色んな経験をさせようと思う。スポーツをさせてみたり、楽器を持たせてみたり、歌を唄わせてみたり、絵を描かせてみたりしたい。色鮮やかな大人になって、そうして選んだ先がサラリーマンならそれでいい。楽しい過去を過ごした人は、何をやっても強いはずだから。

#1 初回

ブログというものには過去何回も挑戦しようとしてきたが、多くて3回、あとはせいぜい1回もしくは1回目の投稿もなしに挫折していました。私がインターネットに浸かったのは小学6年生の秋、もう7年以上も昔のことになりますが、当時は文章を書くということにある程度の自信がありました。中学生の頃の私は、自作小説なんかを書いてみようともしていました(これも完成まで続かずに廃棄したが)。国語の授業で小説を書こうという回があり、最高評価の3点をもらえたのをとても喜んだ記憶があります。それは時系列も繋がりもめちゃくちゃな酷いものでしたが、それを酷いものと認識した時から書くことが苦手になった気がします。

「文章は1日寝かせてから読み返すべき」とよく言われますが、私は10分後に読み返しても全文修正したくなります。そもそも、ブログを書こうと思い立つのが「知り合いがしているから」という主体性のない理由なので、自分の中の文章に対する正解がその知り合いの文章に依存してしまいます。たとえ似せようとしても、同じ文章は書けない。10分前まで書いていた文章がなんだか劣化コピーに見えて、すごく気持ち悪くなってしまうんです。

とはいえ私も、気づけば大学生になり一人暮らしを始めました。自立をしました。『自立』の評論家がいれば顔を赤くして殴り込んできそうな、自堕落な生活を送っているけれど、1年目の大学はそんな私を進級させました。ゲームのプレイ時間が積もる毎日を打開するために、趣味を見つけようとしました。そういう生活のうち、せめて1回1000~2000字程度のブログを書けるようなものを、書いていきたいと思っています。自己満足な文章が読みづらいものだというのは、インターネット7歳の私はよく理解しています。読ませる文章を目指しますが、ほかの良く出来たブログで勉強するということはしません。これはオリジナリティを保つためですが、この言い訳は、「面倒だから」を隠すのに有用すぎるので、使わないほうがいいです。

 

今後のブログは、今回のような敬体で書いていきます。個人ブログなんてものは、誰かに頭を下げながら書かなくて良いので、常体で十分かと思いますが、誰に向けているのか分からないような、ふわふわした敬体の文章は、なんだか気楽ではないですか。

1回1000~2000字程度と書いておいて、今回は最低ラインの1000字ですが、それもオリジナリティだと言い訳させてください。