小説『桜』

その日も泣いていた。今日もまた人間が僕に群がっていた。花が咲くのは嬉しいからじゃなく、ただ自然の摂理としてそうなっているだけだ。別に珍しくもないのに、綺麗だねなんて、文化人の皮を被った安い感性の連中が僕を見上げる。自分たちが見ている桜がまさかこんなことを考えているなんて思いもしないだろう。

桜に生まれ変わってから100年が経つ。50年を過ぎたあたりから数えるのをやめてしまったから、確かな数字ではない。100周年記念くらい祝ってやればよかったと思う。人間だった頃は天国や地獄はどんな景色だと考えることもあったが、その答えは死んでみれば簡単なことで、そもそも世界は一つしかなくて、天国ルートか地獄ルートか、生きる道の違いがあるだけだった。今は間違いなく地獄にいた。4月になると飽きもせずヒトの群れがやってくる。そいつらの幸せは僕の不幸で成り立っているんだ。思えばヒトとして生きていた頃も漠然と人間が嫌いだった。同じ人間が血を流していても、取り囲んで写真を撮るような連中に辟易していた。交通事故なんて恰好のエサだ。妻が死んだ時も奴らはきっとそうだった。

桜として何百年生きてもそんな心が改められるわけがない。命の行く先を神様が決めているならそいつはあまり頭が良くない。生前の行いを反省したことは一度もないし、桜になってみて感動する光景を見たこともない。心は動かない。一度だけ、澄んだ眼差しで僕を見上げる少女がいたことを覚えている。その少女は妻の面影があった。もしかすると運命の出会いかもしれない。しかし彼女は二度と僕の前に現れなかった。きっともう、彼女は人間としての生涯を終えているだろう。そう悟った時の感情までも地獄のカリキュラムに含まれているとすれば、随分と酷い地獄が選ばれたと思う。次に生まれ変わったら僕は、全てを忘れて桜を美しいと思えるだろうか?